「眺めてみる漆黒の大きな銅版画」と「手にとってみる素描としての小さな銅版画」



風のない川面にゆっくりと釣り糸を垂れる。糸はゆっくりと弧を描いて、ピンと張り詰めた竿の先と見えざる世界をつないでいる。鏡面のように見える銅板の上に鉄筆を突き立てるとき、僕はふと、昔良く眺めたそんな光景を思い出す。

何を描くと決めた訳ではなく、気ままに鉄筆を走らせるのは、なにがいるのか分からない水の中にただ針を垂らす釣りのように、見えない世界からのレスポンスを待つかのようで楽しい。しばらくすると、まるで水面に波紋が広がるが如く、彫り始めた線が踊り出し、さまざまな形に変化して、想像もしていないような形へ結実してゆく。無意識下から呼び起こされ、版に刻まれた形をよくよくみてみると比較的記憶の浅い部分にはっきりと残る最近見た印象深い光景だと改めて感じることが出来る。

僕にとってこの素描群は、自分の記憶の其処此処に散っている無意識下のイメージを、自分の中から表の世界につり出す作業になったようだ。少し覚え書きのように描いたものが多いので、描き出されたものは単語や散文詩のような状態になっていて、頭の中を過ぎ去ったはかないものが偶然に銅版画に定着したように思っている。銅版画という「版」を使って描くことで得たイメージは、紙に描くこととは異なり、完全にコントロールできない部分があるだけに毎日作っても刷り上げる度に新しい発見がある。

刷ると言えば、版画は「紙」の選び方で随分と印象が変わる。どれも一見同じような紙だが、それぞれの個性があり、作品のイメージにぴったりと合う紙を選ぶことが出来るかは作家の経験によるものが大きい。柔らかかったり、固かったり、触れるとその個性がよく分かる。この素描では、描いている時に「こんな色がいい。」と、サッと感じた色と紙を選んで迷わずに刷ってみた。自分の範疇の外側にある紙や色はイメージの可能性を見せてくれた。

大きな銅版画は、その散文詩や単語のようなものから長い時間を掛けて一つのものを紡いでいく。その制作はまるで建築家ように、最初に描いた大らかなイメージを緻密な計画を立てて再現する作業を進めて行く。その時間は長いもので半年、短いものでも一ヶ月以上の時間が掛かる。本展に出品した「A Priori Towane」 シリーズのモノクロームの銅版画制作はそんな気の遠くなるような時間を経て一つの形になった。

かつて、このモノクロームの作品を「どっしりと積もる黒」と表現した方がいたが、その言葉通り、細かい塵がうっすらと長い時間を掛けて積もってゆくように作る行程を経て、漆黒の表現がはじめて完成する。その長期における制作は日々、一進一退を繰り返し、まるで砂浜に行き交う波のような作業を繰り返す。

しかし、緻密な計画も腐蝕液の見えざる力に浸食されて、まるで波に流れる砂絵のように、最初にイメージしたビジョンから少しずつ変化して、時に自分のイメージ以上の結果を、また時に絶望を見せる。随分と曖昧模糊な技法ではあるが、「終わり無き生命の時間」をイメージするこのシリーズには、この揺らぎゆく手法で制作するプロセスが、なぜかしっくりとくるように感じている。

なにか、こうでなければならないという意識を捨てて思いのまま自由に描くこと。そして自然に物事がずれて生まれる想定外を楽しむこと。きっちりとした線引きの周りにはいつもクッションのような可能性を含んだ柔らかな「間」が存在する。日本語に当てはめればこんな感じ。と、いう言葉くらいになるのだろうか。いまは時間を掛けてゆっくりとその「間」から自然に生まれてくるものを受け入れて形にしてみたい。揺らいでいる時間は誰にでもそう長くは続かないものだろうから。

            大矢雅章 2011年9月11日

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